1999年3月31日
亜美夫人が第2子の長女を出産
ダイエー小久保裕紀内野手(27)の亜美夫人(31)が福岡市内の病院で第2子(長女、2960グラム)を出産した。母子ともに健康。
1999年4月30日
今季4号、通算100本塁打を達成
通算100本塁打=小久保(ダイエー) 29日の日本ハム6回戦(東京ドーム)の3回、岩本から今季4号ホーマーを放ち達成。プロ野球202人目。初本塁打は1994年(平6)7月5日、ロッテ13回戦(北九州)の2回に園川から放っている。
1999年9月26日
ダイエー初優勝 今季不振コンビ大舞台で同点&決勝弾
涙で見えなかった。小久保が、左手につけた白のリストバンドを、真っ赤な目に押し付ける。「最後は(頭の中が)真っ白だった。優勝争いしていることだけが、精神的な柱でした。それがないと、ボロボロになっていた……」。対照的に井口は、ホリの深い顔を思いきり崩した。王監督の胴上げに合わせ、バックスクリーン方向に向かい、バンザイを4度。「最高です」とペナントを制した雄たけびを上げた。チームを頂点にノシ上げたのは青学コンビだった。
まずは先輩・小久保だ。1点を追う7回裏、フォークを左中間スタンドにたたき込む同点24号ソロ。今季最長の140メートル弾が、1年間の苦しみを吹き飛ばした。「(王)監督が、ずっと4番で使ってくれて、オールスター後に何とか、貢献したいと思ってやっていた。感謝の毎日だった」と、語る口元は震えていた。
前半戦終了時の打率は、たったの1割8分5厘。不振により2度の欠場も味わった。送りバントのサインを送られたことも2度。「打てない4番」、そんなレッテルとの闘いに、眠れない夜が続いた。愛車ベンツには、2つのチャイルドシートを付けている。長男直紀くん(2)長女春菜ちゃん(5カ月)のため。「ドライブの時に2人の顔を見てると、頑張らないと、と思うんですけどね」と言葉を詰まらせたこともあった。ベース1周の中、左手人さし指を突き上げた後に、もう1度、右手にコブシをつくった。悩み抜いた分、力がこもった。
8回には、井口のガッツポーズが、福岡ドームを揺らした。スライダーを右中間スタンドにズドン。決勝の14号ソロだ。一塁ベースを回ったところで右手を握り締め、大きくジャンプ。「どんな場面でも緊張したことはない」と言い切った男が、人生最大のパフォーマンスで喜びを表現した。
青学大時代には、通算24本塁打で神宮記録を樹立し、鳴り物入りで入団。が、3番ショートの座を狙った3年目の今季は、死球による左手親指の負傷に加え、厳しい内角攻めで伸び悩んだ。14本塁打は、昨年の21アーチに遠く及ばない。アトランタ五輪銀メダリストは、シドニー五輪アジア地区予選の参加も、胸中では希望していたが「こんな成績では無理でしょう」と、言い出せなかった。が、今季サヨナラ満塁弾を含めて、サヨナラ打はチーム最多の3度。この日も打席に向かう前には「オレが決めてきます」と宣言して臨み、見事に結果を出した。
バルセロナ五輪で銅メダルをもたらした小久保は、6年目で27歳。井口は3年目で24歳。年齢は若いが、世界を知る男たちが、今のダイエーにはいる。球団初の優勝。苦しみ抜いた2人が、最後に大きな花を咲かせた。
1999年12月18日
選手会長の初仕事は「日本一リング」作成要求へ
【ホノルル16日(日本時間17日)】ダイエーの新選手会長・小久保裕紀内野手(28)が初仕事として「日本一記念リング」の作製を球団に要求することになった。球団初優勝の記念として球団は優勝時の写真パネル、個人名が入ったフラッグを作製中。小久保は「球団も何かつくってるらしいですけど、イチローが優勝リングをつけているのを見ても、良かったですからね」と、米大リーグではステータスとされている優勝リング作製を、選手会の総意として球団に求めることを決めた。
記念リングでチームの士気が上がれば、の狙い。V旅行から帰国後の24日の契約交渉で球団に正式な意向を伝えるが「僕はチーム成績が悪くても、個人成績がいい時に上げてもらってるし、ダウンでもしょうがない。サインします」と金銭闘争は放棄し、選手会長の仕事に全力を注ぐつもりだ。